罠にかかったイノシシ、命をいただくということ。
食べられる野草を探すツアーの途中で、本当に偶然に
罠にかかって動けなくなっているイノシシに遭遇しました。
くくり罠という、足を縛り付けてしまうタイプで、必死で逃げようとするイノシシの姿に
大人も子どもも、考えさせられるところがたくさんありました。
「かわいそう」というのが、正直な気持ちなんですが、僕たちが食べている肉は、こんな風に生き物の命を絶って作られているのであって
(植物も同じこと)
このイノシシはかわいそうだけど、罠にかかってしまったらもう、命を絶ってあげるしかなくて、逃してあげても足の怪我で長くは生きられない。
「命をいただく」ことの本質を見た思いがします。
アラスカの動物写真家、故星野道夫さんの言葉で
彼がアラスカでネイティブの人達とムース(ヘラジカ)のハンティングに行き、その肉をいただく時のエピソードがあって
「極北を生きたムースの体は、スープになって僕の体に染み込んでいく」
「その時、僕はムースになり、ムースは僕になる」
原文と少し違うかもですが、この言葉の意味って「食べる」こと自体が本来が
「生き物と生き物が融合して一つになる」ことだと言ってるんだと思うんです。
ムースを食べる時、そのムースが生きて来た極北の森での物語ごと、自分の体に入れて、一つになる。
だからこそ「食べる」時に大切なのは
「本当にその生き物と一つになりたいのか?」
というリスペクトがもっとも大切だと思うんです。
だからこそ、ネイティブの人たちは、自分で狩りをして、生き物の命を自分で断ち、自分が生きる為に命をいただくことを、きちんと相手へのリスペクトを持ってやって来た。
現代人である僕たちの元にやってくる食べ物は、生き物だった時「本当にリスペクトできる相手なのか?」がとても曖昧になってるんです。
閉鎖空間に閉じ込められ、不自然な環境、不自然な食べ物で育てられた動物達、農薬まみれで育てられた植物達、そんな生き物と、本当に一つに融合したいのかどうか?
僕が野草を食べるのは、そういう理由もあって
「生きている時の姿を見られる」
「野草がどんな風景の中で生きて来たのか分かる」
「相手とリスペクトし、融合したいと思える」
こういう気持ちがあるからなんです。
今回、かわいそうなイノシシの姿を見られたことは、イノシシにはかわいそうな場面だったのですが「食べる」を考えるにおいてとても大切なシーンになったと思っています。
「かわいそう」はもちろんあるけど、それ以上に「相手の命を無駄にせず、きちんと自分の力に変える」ことが大切なことなんだと思います。
そして、このイノシシの姿には、現代社会の根本的な闇がある。
子ども達へ、どう伝えたら良いかも含めて、続きは動画でご覧ください。
※ 動画は解体シーンなど出て来るので、閲覧注意です。