なぜ熊を殺してはいけないのか?なぜ木を伐ってはいけないのか?人間は自然の中でどう振る舞うべきか?

どうして熊を殺していけないのか?
どうして木を伐ってはいけないのか?
どうして自然は大切なのか?
どうして山に食べ物が無くなっているのか?
どうして食料難になるのか?
環境負荷とよく言われるけど、いったいどんな風に負荷が積み上がり、それがどんな風に作用していくのか?

人里に出没して危険を感じた時に、その熊を殺すことは、自衛として必要と考えますが、熊を殺した時にどんな影響があるのかは、みんなで知っておいてほしいと思います。
道徳とか動物愛護とか、そう言う要素は無しで、なるべく完結に分かる内容で、説明してみたので、参考にしてみて下さい。

※ この記事の内容は「原生植生が最も環境負荷のない状態」という考え方と、「エネルギーの収支は釣り合う」「恒常性」と言った考え方を参考にして、自然界の法則はこうではないか、ということを説明しています。もちろん僕個人が学んで出している結論なので、異論や反論もあると思います。

1. 自然は最初は「ゼロレベル」だった。



まず「原生植生が最も環境負荷のない状態」という考え方を元に、人類が自然に手を加えない状態を「ゼロレベル」とします。

この状態の地球では、動植物がお互いに干渉し合って生態系を築いていても、食物連鎖などお互いに干渉する範囲はほんのささやかなもので、地球の自然の循環は一番無理の少ない状態で運営されています。

もしここで、人間が人為的に一本の木を伐った場合(自然の大きな改変)。

その木が失われると、そこにあることで行われるはずだった循環が失われることになります。

木は、小さな生き物達の家であり、葉は酸素を作り出しています。大きな木一本分、生き物達は家を失い、酸素を循環させる機能が失われます。

これは、地球の歯車を一つ外すようなことをイメージすると分かりやすいです。
歯車が無くなれば、そこだけうまくかみ合わなくなるので、地球はそこに他の樹木を生やしたりして、別の歯車を用意して運営を再開します。

だけど、自然が新しい歯車を用意するのは簡単なことではないのです。

その新しい歯車(次の樹木)を地球は難なく用意しているように思いますが、実は裏でこんなエネルギーの移動が行われているはずです。

2. エネルギーは総量が決まっている。

ここで前提としなくてはならないのが、地球を循環するエネルギーの収支は一定に保たれており、総量が決まっているということです。

これは、水の循環をイメージすると分かりやすいかもしれません。

昔、僕がアラスカを旅した時にこんなエピソードがありました。

アラスカでは毎年山火事が起こっていて、たくさんの面積が黒く焼け焦げてしまいます。
これは雷で発火することにより自然に起こることで、こうして山火事がないと、ムースなどが食べる植生が育たないそうです。森の生き物にも山火事は大切な現象なのです。

だけど僕がアラスカを旅したその年は、山火事が例年類を見ないほどの規模となり、人が住んでいる場所にも火が及び、みんな避難したり、延焼を防ぐため、家の周りの木を伐り倒していました。

どうしてこんなに燃え広がったのか、と聞いてみたら、現地に住む日本人の方がこんなことを教えてくれました。

「アラスカで山火事が燃え広がったのは、日本の台風のせいだよ」

よくよく聞いてみると、それはこのような意味なのです。

その年、日本でも例年類を見ないほどの台風が発生し、豪雨が日本中で起こり、土砂崩れや浸水でたくさんの人が避難していいました。

実は地球全体としての降水量の総量は一定に保たれているので、どこかでたくさん雨が降り過ぎれば、どこかの雨を奪っているということになるのです。

日本で大量の雨が降った結果、アラスカではその夏、雨がほどんど降りませんでした。

カラカラに乾いてしまった森が、山火事を延焼させ、このような事態になったのです。
日本では土砂崩れでみんな避難している頃、アラスカでは山火事でみんな避難していたのです。

もちろん日本の台風だけが原因という訳ではないでしょうが、一定の水分量を分け合って使っているこの地球では、どこかで使いすぎればどこかで足りないという事態が必ず起こるのです。

同じことが、地球を巡る様々なエネルギーの総量にも言えます。

一本の木を伐った結果、そこに循環の空洞が起こり
その空洞を埋める為に新たな木を生やすことに少なからずエネルギーが使われるので、
必ず別の場所でエネルギーが足りなくなるのです。

同様に、一頭の熊を殺した結果、生態系が乱れ
その乱れを元に戻すために少なからずエネルギーが使われるので、
必ず別の場所でエネルギーが足りなくなるのです。

※ この記事では「エネルギー」という単語を便宜的に使っていますが「自然現象や生き物の営みによって、地球を運営する為に生み出され消費され巡る様々なエネルギーをメタ的に一括りにした総称」とさせて下さい。

学校の教室に例えてみる。

地球の様々な自然物は、そのすべてが地球に必要なクラスの一員である。

もしエネルギーの総量が決まっているなら、地球は「余計なものを生やす」ということはしないでしょう。
草木一本、野生動物達も、地球を正常に運営するための歯車として役割を持って、そこに生きていると思われます。

大きな木を倒したり、自然の生き物を損なってしまった場合

その生き物が、自然の循環を行うはずだった役割が空席になってしまい、代わりにいろんな生き物がその役割を担うことになるのですが

もし学校のクラスに例えるなら、役割の決まっているクラスの一人が、急にいなくなってしまったようなもので

みんな本来の自分の役割があるのに、無理をしていなくなった子の分の作業をします。

結局、十分に仕事が行き届かなくて、みんな疲れてしまっている。

今の地球はそんな状態と言えるかもしれません。

3. 木を植えてはいけないのはなぜか?

こうなってくると、人間は地球の為に何かできるのでは、と思うかもしれません。
木を伐ってしまったなら、新たに木を植えたら良いのではないかと思う人も多いと思います。

ですがこの「木を植える」という行為が、地球が元に戻るのに余計な負担を強いている可能性があります。

木は「そこに木が生えていれば良い」というものではありません。
木は、そこに落ちた種が芽吹き、いろんな生き物と競い合って成長し、大きな木になるまでに行われる、いろんな生き物との切磋琢磨が、その森を循環させる為の機能を作り出すのです。

木がある、という(結果)が大事なのではなく、そこに至るまでの他の生き物達との切磋琢磨(過程)の方が大切なのです。
そこで地球に必要なピース(歯車)が生み出されます。

その土地に、何の関係もない木を人間が植えてしまえば、一時的にその場所の循環を担うことはあっても、最終的に自然はその木を排除し、一から必要な木を生やそうとします。

つまり、人が木を植えた分、自然が本当に必要な状態まで戻るのに回り道をさせ、地球には余計な働きを強いており、その分の余計なエネルギーを使わせている可能性があるのです。

そして、その余計なエネルギーを使った分は、負荷となって蓄積されていきます。

※ また、昨今の熊騒動で「山にドングリを撒く」という行為が問題視されるのも、これが理由となっています。繊細な関係を保っている、ドングリの木と野生動物との生態系を、人がドングリを撒くことで乱してしまえば、野生動物だけでなく、その場に生きる植物達のバランスもめちゃくちゃになってしまい、その生態系を修正する為に、自然は長い時間とたくさんのエネルギーを使うことになるからです。

4. 自然は自然自身の、方法とスピードでしか、元に戻れない。

自然は、それが壊された時、自分の力で元に戻ろうとします。「どんな方法で戻るのか」「どのくらい時間をかけるのか」その方法とかけるべき時間を自分で決めている節があります。

人間が自然を早く元に戻そうとしたり、管理しようと思って「木を植える」「草を刈る」などのことをすると、一見、短期スパンでは自然がそれを受け入れて良い形に向かっているように見えるのですが、長いスパンで見ると、結局自分のやり方でやり直しをして、本来の状態に戻ろうとしています。

自然はゼロレベルのところに戻りたいのに、人間がゼロレベル以外のところに誘導しようとしてしまう。

つまり、人が良かれと思って手を加えたことが、地球に余計な仕事を強いている可能性があることを危惧しています。

このことを見ると

人間は自然を壊すことはできても、治すことは自然自身のやり方に任せるしかない

と言えるのではないでしょうか。

人間は自然を破壊してしまった時点で、取り返しがつかないんだということを、理解する必要がある。

そして、それ以上自然に負荷をかけないようにする為には、人が手を加えず、自然が自分のやり方で元に戻るのを待つしかないと言えます。

このことを知っているので、鹿などの野生動物は、緊急時以外は、なるべく大きな自然破壊(他の生き物への干渉)をしない。

鹿が植物などを食べる時など、新芽若葉のところだけを食べるのですが「他の生き物に干渉する時は、必要最小限の量にする」と言う暗黙のルールが、自然界のシステムとして備わっているように思います。

5. 人間は、自然を改変した分と同じ負荷を必ず受け取る。

例えば一本の木を伐ったら一本分の負荷を、森を伐採してしまえばその分の負荷を、余さず受け取ることになります。

負荷とは、自然の状態から改変された分の歪みのようなもので、それは形を変えて様々な方法でやって来ます。

自然災害、食料難、気候変動、猛暑、豪雨、果ては人間の生活から来る鬱や成人病に至るまで

ゼロレベルから改変された「不自然さ」の歪みを、僕たちは、負荷の揺り戻しとして様々な形で受け取っています。

6. 僕たちは負荷の大きさをイメージできていない。

木を一本伐るなら、その木が生きていたら果たすはずだった役割と同量の負荷を受け取る、と考えると途方もない量に思える。

これまでのことを考えると、僕たちは、原生植生から現代の人間社会に、自然を改変してしまった分、(考えると気が遠くなるほど膨大な)負荷を背負っていることになるのです。

何故なら、自然が元に戻る時、それ相応のエネルギーを余分に使って元に戻るので、人間が破壊した自然の分の負荷は元に戻る為のエネルギーと同じになるからです。

極論で言えば、農耕を始めて人類が極端な森林破壊を始めた約8000年前から今に至るまで、文明によって積み重ねた負荷全てを、僕らは背負っていると言えるかもしれません。

そして、自然は負荷を、二つの方法で揺り戻していきます。

①長い時間をかけて返す。揺り戻しを受け取るのは次世代。

自然界では、1000年かけて出来上がったものが壊されれば、本当の意味でそれが元に戻る為には同じ1000年を要すると言っても良いかもしれません。

僕たちが今、自然を破壊して積み上げている負荷は、僕たちの世代にはむしろあまり影響がなく、実は僕たちの子ども達や孫たちの世代に影響し、ゆっくりと揺り戻しをかけていくことが多いです。

負荷の揺り戻しを受けるのは、次世代なのです。

②災害として一気に返す。

自然は「あまりにも短い時間で行われた不自然な変化」「あまりにも積み上がり過ぎた不自然さ」この二つによって災害を引き起こします。

「あまりにも短い時間で行われた不自然な変化」

例えば、温かい部屋から寒い外に急に出たりすると、くしゃみをしてしまうことがあるように

森林を都市化させて、急激に環境を変化させた場合など、自然界にあり得ないスピードで自然を変化させた時、揺り戻しはくしゃみのように災害となってやって来ます。

「あまりにも積み上がり過ぎた不自然さ」

まるで積み木を一列に積み上げてしまった時のように、自然界にあり得ないバランスで、不自然な状況が積みあがってしまったものは、一気に崩れ落ちます。

日本の人工林のように、自然界ではあり得ない量のスギやヒノキが管理もされないまま植えられている時、自然はバランスを元に戻そうと土砂崩れという形を取ったりします。

一度壊れてしまった自然は、自然自身のスピードでゆっくりと元に戻ってもらうのを待つのが、新たな負荷を生み出さない方法と言えます。

人間は、自然を壊してしまったなら、後はその分の揺り戻しを受け入れながら、元に戻る為の長い時間を待つしかないのかもしれません。

7. 時間もまた、本来省略できないかもしれない。

これは観念や思想的な話になってしまうかもしれませんが…

人間は、様々な便利なものを発明し、手間を省略しようとします。
自然界にあるべきスピードより早く物事を進め、自然界から利を得ようとします。

しかし僕たちが行動し影響させたこともまた、形を変えて伝播していきます。

もし自然界が時間の流れ方も一定のルールを課しているなら、人間が時間を省略させて行ったこともまた、同じ質量の揺り戻しを受け取ることになるのかもしれません。

ほんの数年前ですが、僕は初めて飛行機というものに乗りました。

何かに乗って空を飛ぶという体験もすごかったのですが、何よりこれまで車で何十時間もかけて進んでいた距離を、たった一時間半で行ってしまった時、体感として恐くなったものです。

「この省略した時間はどこに行ったんだろう?」と。

これは、省略した時間の為に使った様々なエネルギーが、巡り巡って様々な形で負荷になるイメージをしています。

もし時間が本来省略できないルールだったなら、人間が二本の足で歩いて移動していく本来のスピードから、当たり前に車で移動するようになった現代人は
どんな揺り戻しを受けているんだろうと、所要時間を短縮するために使ったエネルギーのボリュームに恐くなるのです。

8. 便利な発明も、今の状態を解決できない。

人間が作る素晴らしい発明は、一時的に僕らを助けてくれます。
でも、結局この地球の問題は解決できないと考えています。

それどころか、ほぼ必ず自然への負荷を増大させてしまうでしょう。
それは、多くの発明が「みんな同じやり方でたくさんの人が行える」ことを前提に作られているからです。

良いものであればあるほど、それが広まってみんなが使うようになる。
でもこの記事のようにそのこと自体が、自然のバランスを崩してしまう。

今、地球を脅かしている化石燃料だって、最初は素晴らしい発明だったはずで、一部の人が細々と使っているくらいなら良かったのに
世界中の人が使うようになったので、世界中の化石資源がものすごい勢いで放出されて、自然界ではありえないバランスになってしまい、戻れなくなった。

なぜ、人間が地球にとって害となるのか?

それは発明や道具の良し悪しではなく「自然を改変する規模」で害となっているからです。
みんな同じことをしようとすることで、環境に与える自然への変化が大きすぎるのです。

大きく使えば、大きな影響を生み
小さく使えば、小さな影響を生む。

そのことを、野生動物も虫たちもよく分かっていて、どのくらい草を食べるのか、どのくらい蜜を採ってくるのか、分かって、自然にアプローチしているのです。

9. 人間は自然と関わらない方が良いのか?

この記事を読むと、人間は一切自然に関わらない方が良いと思ってしまうかもしれません。

ここからは特に観念の話になりますが、僕は、ここまで書いてなお、自然と人間は関わっていくべきだと考えています。

人間は自然に手を加えることで、自分が住みやすい、心地良い自然との関係を手に入れる。

それは、子育てにおける親と子の関係に似ていると思います。
母なる地球、とよく言いますが、まさに自然が親で、人間が子どもです。

僕も経験がありますが、子育ては親をすり減らします。

子育ては、親にとっては体への負荷も大きく、時に子育てそのものが老いを進行させることもあるくらい、大変なものです。

じゃあ、子どもなんていない方がいいじゃないか、と思うかと言うと、そんなことはないのです。

僕たち親は、子どもからかけがえのない幸せな時間をもらっているからです。触れ合い、コミュニケーションし、その時間で得たものがたくさんある。

自然のさまざまな生き物も、人間に触れられて得ているものも多くあると思います。
そしてそれによって、自然は喜んでいると感じられる時があります。

自然と人間の関係は、親と子に似ています。

ただ子育てによって体力を失った親が、その体力を取り戻せる訳ではないように

自然は人間と何かコミュニケーションしたいと思っていても、やっぱり手を加えられれば、自分をすり減らしているのです。そのことを、僕らは知っておく必要があると思います。

適切に自然に手を加えれば、人間も自然もお互いにどんどん良くなると考えている人ほど、このことを想像してみて欲しいと思います。

手を加えられていること自体は、自然にとってはベストな形ではないことを。

人間だけじゃない。動物や虫達でも、小さくても大きくても、お互いの自然の在り方を損なったら、それ相応を負荷をみんなで受け取ることになる。

だからこそ、僕たちはいろんな生き物から受け取ったものに感謝し、自然に対して謙虚に生きるべきなんだと思います。

最後に。

なぜ、昔のネイティブインディアンの長老などが「自然を壊してはいけない」と言ったのか。
なぜ「自然は大切にしなさい」と教えられているのか、がよく分かる今日この頃です。

僕は「原生植生が大切である」ことと「エネルギー収支」と言った、誰にでも分かりやすい理論や考え方によってこの記事を書いたのに、どうして世界中の学者や政府がこの考え方に沿った提言や対策を取っていないのかが理解できないのです。

ここに書いてあることが正しいなら、僕たちは有史からずっと見当違いの自然との付き合い方をして負荷を増大させてきたことになります。

人間もどんな生き物も、自然本来の形から変化させたら、させた分だけ必ず負荷を背負う。

そしてその負荷の多くは、次世代が揺り戻しの後始末をすることになる。

そうして、負荷がまるで大きな借金のように膨れ上がってから、ようやく負荷の大きさに「何とかしなきゃ」と腰を上げるけど、その時に僕たちにできることは少ない。

これから地球には気候危機により、未曽有の災害がやって来ます。
これらのことはもう止めようがないのですが、僕たちにできることは

これ以上の自然破壊を止めること。

熊問題を始め、揺り戻しの災害から少しでも自分を守りながら
人間以外の生き物が暮らせるように必要なエリアを明け渡すこと

これだけだと僕は考えています。

ここまで読んでくれてありがとうございました。

この記事が皆さんの自然との付き合い方のお役に立ちますように。

なぜ熊を殺してはいけないのか?なぜ木を伐ってはいけないのか?人間は自然の中でどう振る舞うべきか?” に対して2件のコメントがあります。

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